何故24時間テレビは続くのか
夏の終わり、
湿度の抜けきらない風の中で、
今年も24時間テレビが始まる。
この番組の矛盾や演出過多については、
もはや誰もが知っている。
だから今回は、少し視点をずらしてみる。
この番組の意義、
日テレにとっての費用対効果、
そして福祉に与える影響。
その“構造”を静かに見つめ直す。
24時間テレビには、
いつも曖昧さが漂っている。
これはショーなのか、ドキュメントなのか。
感動なのか、演出なのか。
その境界線が曖昧だからこそ、
人々は毎年同じようにテレビの前に座り、
似非感動ポルノと揶揄されながらも、
どこかで“見続けてしまう”という現象が起きる。
では、なぜ人はこの番組を見続けるのか。
その理由のひとつは、
日本人が持つ特殊な感情の構造
「同情するなら金をくれ」という、
昭和のドラマに刻まれたあの直球の情緒が、
今もどこかで生きているからだ。
今年、唯一整合性があるとすれば、
障害を持つ子どものために走る
星野真里の存在だろう。
そこには、演出を超えて
“個人の物語”が立ち上がる瞬間がある。
日本人が好むのは、巨大な感動ではなく、
こうした“小さな献身”の物語なのだ。
その物語が、番組全体の曖昧さを一瞬だけ照らす。
そして、スポンサーの構造を見れば、
この番組がなぜ終わらないのかが分かる。
24時間テレビは、
企業にとって極めてコスパの良いCI広告である。
「善意」「社会貢献」「感動」というイメージを
一度に獲得できる広告枠は他にない。
スポンサーは群がり、
その潤沢な資金で豪華な企画と
キャスティングが可能になる。
日テレは視聴率と広告収入を確保し、
企業はイメージアップを得る。
まさにWIN-WINの構図だ。
外野がどれほどヤジを飛ばそうが、
この構造が崩れない限り、番組は終わらない。
見る人がいて、募金する人がいて、
スポンサーが価値を見出す限り、
24時間テレビは“夏の終わりの風物詩”として
これからも続いていく。
それは、善意と商業主義が混ざり合う
日本的な曖昧さの象徴であり、 同時に、
テレビというメディアが最後に残した
巨大な“感情装置”のひとつなのだ。

コメント