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窓際の君に捧ぐ(改)

ポエム

カクヨムに投稿したリライト版

六月の風は、制服の袖を揺らしながら、
どこか遠くへ連れていこうとする。

放課後の帰り道、
私はいつもの病院の前で足を止めた。

ガラス越しに見える彼は、
今日も窓際で本を読んでいる。
白い病室に溶けそうなくらい静かで、
でもページをめくる指先だけが、
不思議なほど生きている。

——ああ、今日もいる。

それだけで、少し息がしやすくなる。

最初は、ただの偶然だった。

祖母のお見舞いの帰り、
廊下のベンチで咳き込んでいた彼に、
自販機の水を渡しただけ。

「ありがとう。君の制服、夏の光みたいだね」

そんな言葉を、
真顔で言う人がいるなんて思わなかった。
でも、その一言で——
世界の色が、少しだけ変わった。

それから私は、
わざと病院の前を通るようになった。

彼は窓際で、私は外。
言葉は交わさない。

ただ、目が合えば——
ほんの少しだけ笑う。

それだけの関係。

それなのに、
彼のいない日は、空気が薄い。

——おかしいよね。

ある日、彼がいなかった。

窓際は空っぽで、
カーテンだけが揺れていた。

胸の奥が、急に冷たくなる。

次の日も、その次の日も、いなかった。

私は初めて、病院の中に入った。

受付で名前も知らない人のことを聞くのは、
思ったより勇気がいった。

「窓際の……本を読んでる人、なんですけど」

困った顔をされたあと、
看護師は小さく息をついた。

「……ああ、直人さんね」

名前を、初めて知った。

「少し、状態が悪くて」

それ以上は聞けなかった。

——聞いたら、終わる気がしたから。

数日後、彼は戻ってきた。

前より少しだけやつれていたけれど、
それでも同じ場所で、本を読んでいた。

私は、思わず笑ってしまった。

ガラス越しに、彼が気づく。

「……久しぶり」

唇が、そう動いた気がした。

その日の帰り道、
私は初めて決めた。

——もう、外側にはいない。

病室のドアをノックすると、
彼は少し驚いた顔をした。

「入っていい?」

「……どうぞ」

近くで見ると、彼は思ったより若かった。
そして、思ったより——弱かった。

「来ると思ってた」

彼は、そう言って笑った。

「なんで?」

「君、顔に出るから」

図星で、何も言えなかった。

それから私は、毎日通うようになった。

学校帰り、少しだけ話す。
くだらないこと、音楽のこと、
世界のこと、未来のこと。

未来の話になると、彼は少し黙る。

「君は、未来があるんだから」

「俺のことなんて気にしなくていいよ」

そう言うくせに、
私が黙ると、すぐに気づく。

「……今日、何かあった?」

優しさは、時々いちばん残酷だ。

——離れられなくなるから。

六月が終わる頃、
私は言ってしまった。

「ねえ、逃げない?」

彼は、少しだけ笑った。

「どこに?」

「どこでもいい。ここじゃないどこか」

しばらく沈黙があって、
彼は本を閉じた。

「……いいね」

その一言で、
すべてが動き出した。

夜、彼は病院を抜け出してきた。
私は駅で待っていた。

手を引いて、走る。

笑いながら、逃げる。

世界から、こぼれ落ちるみたいに。

海のある町に着いたのは、朝だった。

風は少し強くて、
空はやけに青かった。

「きれいだね」

「うん」

それだけで、よかった。

数日だけの、自由。

限りがあると分かっているから、
すべてが鮮やかだった。

でも——終わりは、来る。

夜の崖の上。

下には、暗い海。

波の音だけが、ずっと続いている。

「ここでいい?」

私が聞くと、彼は頷いた。

「うん。悪くない」

手を繋ぐ。

冷たい。

でも、確かに生きている温度。

「怖い?」

「……少し」

「私も」

風が強くなる。

一歩、前へ。

その瞬間——

「やめろ!!」

光が走る。
声が響く。

振り返ると、
大人たちがこちらへ走ってきていた。

世界が、追いついてくる。

逃げきれなかった現実。

私は、動けなかった。

彼の手が、少し強くなる。

「どうする?」

その問いに——

胸の奥が、ほどけた。

「……ねえ」

声が震える。

「もう少しだけ、生きてみない?」

彼は驚いた顔をして、
それから、ゆっくり笑った。

「いいよ」

その一言で、
六月の風が、少しだけ優しくなった気がした。

崖から離れる。

手は、まだ繋がったまま。

終わり損ねた世界の中で、
それでも私たちは、少しだけ前に進んだ。

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